芸術に言葉はいらない、なんてことは無い

大学時代、文芸学部の芸術学科に通っていた。
芸術学科と言うと
「え?絵とか描いてるの?」
とよく聞かれた。

実際はそうではなくて、私はひたすら文字を書いていた。それも小説や戯曲ではなく、論文を書いていた。
私の大学では、「芸術作品を観賞」し「作品の意図・背景を考察」し「自身の解釈で作品を分析する」ことが求められた。
そのため論文やレポートを書くには作品のモチーフ(描かれている物によって特定のメッセージがあるとされている)、技法、歴史背景、関連・類似作品、作家など、様々な情報が求められた。
それらの情報がちきんと揃って初めて自分の考察に意味を持たすことができた。

芸術の分析は他の学問と同じように、もしくはそれ以上に様々な観点から考察しなければ、形作ることが出来ない。
それは芸術のもつ性質が決められた答えを持たないことに起因する。

芸術作品において大切なのは、作品と鑑賞者の間で行われるコミュニケーションである。鑑賞者は作品を見て、「こんな感じがするなぁ」と思う自由がある。それを作家は禁止することは出来ない。なぜなら観賞する場所に芸術家はいないからだ。
もし仮にいたとしても、横から「これはこう解釈せよ!」というような芸術家は自分の作品の持つメッセージを信用していない人物であり、その瞬間から芸術家ではなく、ただ自身の言葉を押し付ける人となる。

こう記述すると「やはり芸術に言葉なんて不要だ!」となりかねない。事実、作品と観賞者の間のコミュニケーションには言葉は不要だ。観賞している間は、鑑賞者は自身の感受性を豊かに使って作品を感じればいい。それこそが芸術におけるコミュニケーションとなる。

しかし、言葉は鑑賞者の感性に大いに影響をもたらす。例えば、何の背景もわからない絵を見る。それには一本の線が描かれており、それ以外に何もない。ただなんとなく気になる絵であるとする。
そこに一つ情報を加える。500年前に書かれたという情報を加える。そうすると、500年前に書かれた状況を想像することが出来る。現代とは違う状況下で描かれた絵ということになる。材質や技法も違うものに思える。更に情報を加える。この絵を書いた人物は完成後死んだとする。そうすると、また別の解釈が生まれてくる。一本の線が持つ意味が別のものへと変化する。更に死因は病死だとする。そうすると鑑賞者はこれらの情報を元に作品を観賞することとなる。これらの情報が鑑賞者の感性を変化させ、別の感じ方をするようになる。

このように作品を見る鑑賞者の感性は、言葉によって容易に変化する。その為、芸術観賞の際に読まれるような言葉には大変な意味がある。それは言葉自体が答えを持つというものではなく、言葉によって変化させられた自身の感性が、作品に対する感じ方を変えるという意味だ。この時の言葉は多くの場合、鑑賞者の感性をより良く広げて作品に対する受容をしやすくなるように機能する。一層作品世界に入り込めるよう作られている。

ただ時に言葉は鑑賞者に不快な感性を与えることもある。それによって起こる作品と観賞者によるコミュニケーションは鑑賞者にとって理解不能な物へと変化する。
その際に何が悪いというものはない。なぜならコミュニケーションはどちらか一方が悪いというものではないからだ。
芸術におけるコミュニケーションの不一致は、発する側と受けて側の感性の違いから生じる。そしてこのコミュニケーションには明確な答えは存在しておらず、損得も勝ち負けも含まれない。

このコミュニケーションの不一致に対する鑑賞者の反応自体は、作品にとって何も影響しない。
作品は作品だけでは変化することが出来ない。ただし、芸術家にとっては感性の変化を生じさせることはある。また、鑑賞者の言葉や反応は他の鑑賞者の感性を変化させる。
例えば有名な批評家がある絵を良いと絶賛すると、他の鑑賞者も良い絵であるという感じが少なからず起こる。

このように鑑賞者に対して言葉は大いに影響を与える。この意味で芸術に言葉はいらない、なんてことはなく、言葉の感性に対する影響力は軽んじることは出来ない。