贅沢とお金

贅沢するにはきっと財布だけじゃ足りないね。

椎名林檎のキラーチューンの冒頭の歌詞だ。
本当の贅沢に必要なものはお金以外に何かあることを示している。

私の実家は地方の子金持ちで子供の頃から裕福に自由に育ててもらった。
そのため大学生というモラトリアム期間はお金と自由のある生活を悠々自適にのんびりと過ごしていた。
今よりずっと優雅に過ごしていたと思う。

でもモラトリアムにありがちな、何か足りない物をずっと感じていた。

お金はある、時間はある、けど圧倒的にやる気がない。
とにかく退屈で暇で家でずっとごろごろしていた。
その時ふと贅沢や豊かさとは何なのか疑問を感じた。
家で堕落して怠けている自分は好きではなかった。
自由も豊かさもあって贅沢な生活をしているくせに心は満たされず、不安と孤独を感じていた。

友達がSNSに載せる写真を見ては羨ましく思い、きらびやかに見える周りと自分の間に大きな差を感じていた。
たまには友人と遊び本当に楽しい時間を過ごす。
心の底から満たされる時間だ。
ただ翌日ひとりで過ごす日々は退屈で苦痛だった。
一方で毎日誰かと会っている時も自分は遊んでばかりで何もいない不安に襲われた。

何をしていても不安でどこにいても満たされないのた。

当たり前だ。自分で生み出した価値が何一つないのだ。
それはお金だけでなく誰かが喜ぶような何かが無いということ。

一人っきりで自分自身を喜ばすのは難しい。
誰かの反応や繋がり無しに自分で評価し満足するのは、訓練や経験が必要だ。でも圧倒的にそれが私には足りなかった。

いま再び本当の贅沢について考える。
私が考える贅沢は誰かとの繋がりなしでは成り立たない。
私が何かを作り出し誰かが喜ぶこと。
誰かの作り出したもので私が喜ぶこと。
そんなことが私にとっては本当の贅沢となる。
安心と自信無しに心の底から楽しむことは不可能だ。

今から私はそれを獲得するために懸命に勤めようと思う。

芸術に言葉はいらない、なんてことは無い

大学時代、文芸学部の芸術学科に通っていた。
芸術学科と言うと
「え?絵とか描いてるの?」
とよく聞かれた。

実際はそうではなくて、私はひたすら文字を書いていた。それも小説や戯曲ではなく、論文を書いていた。
私の大学では、「芸術作品を観賞」し「作品の意図・背景を考察」し「自身の解釈で作品を分析する」ことが求められた。
そのため論文やレポートを書くには作品のモチーフ(描かれている物によって特定のメッセージがあるとされている)、技法、歴史背景、関連・類似作品、作家など、様々な情報が求められた。
それらの情報がちきんと揃って初めて自分の考察に意味を持たすことができた。

芸術の分析は他の学問と同じように、もしくはそれ以上に様々な観点から考察しなければ、形作ることが出来ない。
それは芸術のもつ性質が決められた答えを持たないことに起因する。

芸術作品において大切なのは、作品と鑑賞者の間で行われるコミュニケーションである。鑑賞者は作品を見て、「こんな感じがするなぁ」と思う自由がある。それを作家は禁止することは出来ない。なぜなら観賞する場所に芸術家はいないからだ。
もし仮にいたとしても、横から「これはこう解釈せよ!」というような芸術家は自分の作品の持つメッセージを信用していない人物であり、その瞬間から芸術家ではなく、ただ自身の言葉を押し付ける人となる。

こう記述すると「やはり芸術に言葉なんて不要だ!」となりかねない。事実、作品と観賞者の間のコミュニケーションには言葉は不要だ。観賞している間は、鑑賞者は自身の感受性を豊かに使って作品を感じればいい。それこそが芸術におけるコミュニケーションとなる。

しかし、言葉は鑑賞者の感性に大いに影響をもたらす。例えば、何の背景もわからない絵を見る。それには一本の線が描かれており、それ以外に何もない。ただなんとなく気になる絵であるとする。
そこに一つ情報を加える。500年前に書かれたという情報を加える。そうすると、500年前に書かれた状況を想像することが出来る。現代とは違う状況下で描かれた絵ということになる。材質や技法も違うものに思える。更に情報を加える。この絵を書いた人物は完成後死んだとする。そうすると、また別の解釈が生まれてくる。一本の線が持つ意味が別のものへと変化する。更に死因は病死だとする。そうすると鑑賞者はこれらの情報を元に作品を観賞することとなる。これらの情報が鑑賞者の感性を変化させ、別の感じ方をするようになる。

このように作品を見る鑑賞者の感性は、言葉によって容易に変化する。その為、芸術観賞の際に読まれるような言葉には大変な意味がある。それは言葉自体が答えを持つというものではなく、言葉によって変化させられた自身の感性が、作品に対する感じ方を変えるという意味だ。この時の言葉は多くの場合、鑑賞者の感性をより良く広げて作品に対する受容をしやすくなるように機能する。一層作品世界に入り込めるよう作られている。

ただ時に言葉は鑑賞者に不快な感性を与えることもある。それによって起こる作品と観賞者によるコミュニケーションは鑑賞者にとって理解不能な物へと変化する。
その際に何が悪いというものはない。なぜならコミュニケーションはどちらか一方が悪いというものではないからだ。
芸術におけるコミュニケーションの不一致は、発する側と受けて側の感性の違いから生じる。そしてこのコミュニケーションには明確な答えは存在しておらず、損得も勝ち負けも含まれない。

このコミュニケーションの不一致に対する鑑賞者の反応自体は、作品にとって何も影響しない。
作品は作品だけでは変化することが出来ない。ただし、芸術家にとっては感性の変化を生じさせることはある。また、鑑賞者の言葉や反応は他の鑑賞者の感性を変化させる。
例えば有名な批評家がある絵を良いと絶賛すると、他の鑑賞者も良い絵であるという感じが少なからず起こる。

このように鑑賞者に対して言葉は大いに影響を与える。この意味で芸術に言葉はいらない、なんてことはなく、言葉の感性に対する影響力は軽んじることは出来ない。

晴れ女ってつまり魔法使いみたいなものじゃない?

私の母は晴れ女だ。
母は旅行が好きでよく行くが、行く先々いつも晴れている。霧の摩周湖は雲ひとつなく晴れわたり、台風が来ていた沖縄も何故か快晴、彼女が旅をすると梅雨前線も全て無視している。旅行アルバムの空はいつも青空だ。

偶然晴れとかじゃなく、もはや自分のエネルギーの力で晴れにしている感じがする。思い込みの力。太陽崇拝。そういうスピリチュアルな魔力すら感じる。
それを体験した話をしようと思う。

母とスイスに旅行に行った時のこと。
スイスは両親の新婚旅行の場所で、母は本当に楽しみにしていた。
「スイスのグリンデルワルトでスキーをしたの。目の前にアイガーがあって、景色が綺麗で本当に最高だったよ!」というのを、酔っぱらうといつも母は話していた。
いつも話すので私や姉たちは半ば流しながら聞いていたが、母の目はいつも輝いていた。毎回毎回飽きもせず、その感動を何度も思い起こしながら。
今やいちゃいちゃする姿も想像できない両親が、甘い新婚旅行を過ごしたであろうスイス。
唯一の共通する趣味を思い切り謳歌するために選ばれたスイス。
快晴続きで人生最高の時間を過ごしたスイス。

再びこの地に来たからには、何がなんでも絶景を我が子に見せたい!!
彼女は強い意思を持っていた。

私たちは両親の懐かしの地グリンデルワルトに泊まり、翌日ユングフラウ鉄道で標高3,451mのスフィンクス展望台へと行く予定だった。スフィンクス展望台からはアルプスの明峰ユングフラウアレッチ氷河・メンヒが見え世界の絶景と言われる場所だ。

ただ、問題があった。グリンデルワルトに到着した時点で雨が降りだした。ホテル近くのお土産屋さんで買い物終わりに、母は現地の人に拙い英語で明日は晴れるかと尋ねた。答えはノー。ガイドさんに聞いても雨雲が出ていると言われた。
明らかに落ち込む母。夜になるほど雨は強くなっていた。

夜中ふとトイレで目が覚めた。窓の方を見ると、母が立っている。雨の音で起きてしまったようだ。
母は窓の外を見ながらずっと晴れろ・晴れろと念じていると言っていた。恐ろしいほどの執着心。夜中に外を見ながら念じている母。私はさっさと用を足し、ベットですぐに寝た。

翌朝、雨は止んでいた。母は大喜び。
私は嬉しい気持ちと夜中の母を思い出しては、この人の念は天気を操るんだな、と思った。それは魔法使いみたいだと思った。

晴れ女と言われる類の人は、実は魔法使いなんじゃないかな?
大抵、晴れ女とか晴れ男っていう人々は明るく元気でエネルギーに満ち溢れている。そして、これと決めたことは突き通す強さがある人が多い。
そんな強い念やらエネルギーやらによって、天気すら変わる。松岡修造が日本にいると気温が上がり居なくなると寒波が来るってのが昔流行ったけど、それって本当にあるんじゃないかな。
彼らが晴れ女・男になるのには、必然的な理由があるんだろう。

あ~あ、私も晴れ女になって魔法使いたーい。

自由と責任

今日は責任と自由について考える機会があった。
責任と自由なんて相反する物にも見える。
責任感を持てというのはしっかりとやれ!自由にやるな!という感じがするし、
反対に自由にしている人は責任感なんて無い気がする。
自由気ままに旅をするってのも何にも縛られずフラフラする感じだし。

でも今日色々な人と話すなかで自由と責任は切っても切れない物だと知った。

自由というのは、一人きりで何が起こっても自分で処理することだ。
先ほど書いた自由気ままに旅をするというのも、何かが起きても自分で解決しなくてはならない。
そしてその状況で生じているのは自己責任だ。

自由なんだから、自分で勝手にやれよな。
ということである。

反対に責任がある立場というのは自由だろうか?
責任がある、ということはその部分に関しては自身で決定を下し、その先の行動なり何なりをしていくものだ。
その意味で何をするかは自分次第だし、発言権を持つこともできる。
ただし、何かがあると責任をとらされる。それは何かしらの損や立場を失うこと。

これは先ほどの自由で起こることと何か違いはあるだろうか?

強いていうならば、責任という言葉にはどこかしら他者の存在がある。
誰かに迷惑がかかったから責任をとるのであり、対人で生じる諸問題に合わせて責任という言葉が存在する。

一人ぼっちの人間には他者に対しては責任のとりようがなく、一人で損をして苦い思いをすることになる。それが自己責任というものだ。


つまりなんだというと、ちゃんと責任を持って自由のある生活をしたいな!ということです。

私の体験した怖い話

雨続きで少し肌寒いけど夏も近付いているし、私の体験した怖い話でも書いてみようと思う。

それは中学2年生の秋のこと。実家のベットで眠っていた時に起こった。

当時ベットは窓際にあり、すぐにベランダに出られる位置にあった。それを見た母は「窓側は冷気が入ってくるから壁際の方が暖かいよ」と言っていたのだが、私は寝ながら外の景色を見られる方がいいと思い窓側に設置したまま動かさなかった。

また私は何故か夜もカーテンを閉める習慣がなく(他の家族は閉めていた)カーテンを開けたまま眠っていた。
夜ベットで横になると家の前の大きな木が風に揺れていたのを覚えている。
風の強い日はその木は大きく揺れ、中々怖かった。(それでもカーテンを閉めなかったのは何故なんだ!)

寝床に着いたのは12時を回った頃だった。携帯電話でひとしきり怖い話を読んでから眠るのが習慣となっていた私は、液晶の光でショボくれた目を擦りながら眠りについた。

眠りに着いて2時間ほど経った頃、ふと目を覚ました。そして怖い話あるあるの金縛りにあっていた。
金縛りになるのが初めてだった私は少し興奮していた。いつも携帯電話で読んでいた体験が実際に起こっている!!やはり心霊現象は本当にあるんだ!とか思っていた。もはや脳内お祭り状態のお花畑野郎だった。

その時ふとベットの横に女性が立っていることに気が付いた。怖い話やホラー映画で典型的な髪の長い女性が貞子スタイルでいらっしゃった。流石に見も知らぬ女性がいらっしゃるとなると先程までの興奮はどこへやら、一気に恐怖と戸惑いが湧き出てきた。

どうしよう、何したらいいんだろう。

とりあえず金縛りとは言えども隣の部屋で寝ている姉へ助けを求めようと声を出そうとした。

出ない。息が微かに漏れるだけ。

戸惑いは焦りになり必死に指先や足先を動かそうとするも動かすことは出来なかった。

お祭りお花畑状態から一気にパニックに陥った私は、そのままアワアワしていた。

暫くの時間が過ぎてまた少し落ち着いた私は、女性との間に流れるなんとも言えぬ奇妙な居心地の悪さを感じた。

私の寝ている姿を見ても良いことは起こりませんよ。
私はもう眠りにつきますからね、なんてことを少し緊張しつつ、わりかし呑気に考えていた。

その時、女性が私の頭の先と足の先を両手で挟み、緩やかに上下で圧迫してきた。

今まで読んできた怖い話ではこんなパターンは無かったぞ!
首を締めるとかではなく、その斬新な行動にひたすら戸惑いを感じた。
また当時の私は低身長を気にしており、上下で圧迫されると背が余計に縮まるのでは無いかという恐怖に襲われた。

やめて!!背が縮んじゃう!!私の夢は身長180センチまで伸びることなの!!

序盤苦しいとか痛いという感覚はあまり無かったが、次第にその力は強くなり少しずつ苦しみを感じ始めた。女性は私の体の上に半身乗り出し、本気の腕力を示していた。

今までのおふざけ脳内を反省するように私は一心不乱に「南無阿彌陀仏」と唱え始めた。念仏が未知との遭遇の場合良いというネットサーフィン事前学習の成果を発揮した。そして心の底から「どうか成仏して下さい。健やかに天国に行って下さい。」という良い子の優しさを必死にアピールした。

アピールの甲斐があってか、唱え初めてから暫く経つと女性は居なくなっていた。同時に体が動くようになり、私は起き上がった。

あれ!!今のって本当の体験!?それともリアルな夢!?

自分の体験に疑心暗鬼になりながら、とりあえず落ち着くためにトイレに行こうか怖いから止めようか迷った挙げ句トイレに行き、水を飲み再びベットに戻った。
鏡で見ても特に手の痕や何かしらの痕跡もないことに安堵と若干の証拠不足を感じた。
不思議な体験をした興奮と
「あぁ~怖い話の中の神主シリーズ読んでおいてよかった。念仏はやはり良いんだな~。」
という神仏ごちゃ混ぜ論の感想を抱きながら再び眠りについた。

翌日、家族に一部始終を話した。
家族全体の感想としては「夢かもしれないけど、万一の時に念仏をするのは良い対処法だ」というもたのだった。

ちなみに父は若干霊感があり(小指が薬指の第一間接より長い)実家で女性の霊を見たことがあるとのことだった。ただ悪い人ではなく、穏やかな人とのことだった。

え、その人なのかな?
序盤ソフトタッチだったのは優しさからかしら?
後に私の失礼さによって激しさを増したのかな?

あれは毎夜怖い話ネットサーフィンをしている私を戒める為に、「早く寝ないと背は伸びないぞ!」と忠告に表れた方だったのかもしれない。


今気がついたことですが、最初のカーテンの下り特に関係無かったですね。ちなみに今も不用心にカーテン開け放っていることが多いです。
(いい加減閉めろ)

やる気スイッチを押そう

このブログは誰かに読まれることより自分のために書いている。
とりあえず、「誰か読むかもな~」とは思っているけど、あくまで自分の書きたいように書いてる。
まあ、ブログを書く人は大半そうよね。
自分の書きたいことを書こう、ってのが始まりよね。
それが後々に読者数とか広告収入とか収入源になるのは置いといて。

今まではてなブログアメブロもあまり真面目に読んだことがなかったのよ。
ちょっと気になる人とか記事をつまみ食い方式で読むくらいで、だから大した知識もないし本当に初心者の初心者。
太文字の付け方も知らないし、見出し文も付けてない。

自分用だからいいかなって今は思ってる。

ただ、はてなブログで色々な人のブログを読むと皆すごく工夫して面白い文を書くんだよね。

太文字・見出し・画像・自作漫画とか。

本当に凄いなって思う。
時間も労力もかかるだろうし、色々と気を使っているんだろうなって。

でもそれよりも本当に凄いのは、そんな文章を書く人たちって本当に楽しんで書いているんだろうなってこと。
適当に書いた文章とか、惰性の文章って不思議と画面から伝わってくる。

それはどんな表現でも通じることで、片手までやったものには人を動かす力はない。

私は演劇が好きで今も小さな劇団で制作をしているけど、それが少しだけ腰掛け感がある。

頭の先から足の先までどっぷり浸かるつもりなのに、なぜかはまりきれていない。

それならさっさと演劇なんて辞めて就職した方が世のため人のためと思う。

それでもしぶとく続けているのは、一種の諦めからだと思う。

どこに行ってもきっと私はこのままだっていう恐怖。
それなら今の場所で頑張るべきよね。
どっぷり浸かれ、私。

色々な記事を読む中で、勉強の仕方を書いた記事があった。
勉強を細分化して、5分のTo doリストを作るというもの。
勉強を細分化する時点で半分くらい学ぶべきことを把握すること。

私はこれがすごく苦手なんだけど、ここを乗り越えないと何にもなれない。

だからこれからToDoリストを作って今後の計画を立てようと思う。

とりあえず今日すべきことは

・イベント打ち合わせ
・その準備
・打ち合わせ後のまとめ作り
・打ち合わせ内容の共有
・自分の戯曲構想・曲作り

ここにYouTubeを見るのは入らない。

自分が欲しいもの・成りたい物は手に入れるべきよね。
5分でできるToDoリスト代わりにこのブログも使っていこう。

松果体の覚醒

スピリチュアルとかオカルトが好きなんだけど、最近はnaokiman's showというYouTuberにはまってる。

アゴで検索すると一発で出てくる。

その人が松果体の動画を上げているんだけど、これが面白い。今日はこの松果体について調べたことと考えたことをまとめる。

松果体というのは、ホルモンとかメロトニン・セロトニンを分泌する脳の一部で、メロトニンとセロトニンは睡眠に必要なホルモンである。
夜眠くなるのはメロトニンが分泌されるからで、セロトニンはメロトニンを作る材料である。
私たちの意識に深く関係するセロトニンは、光を目と連動しながら、松果体を通して受け取った光を脳下垂体を通して身体の細胞へと伝えている。
これが感覚を研ぎ澄ませて、人のイメージを見させる働きを持っている。

そこを覚醒させると世界のなんでもお見通し状態になるらしい。

また、松ぼっくりの形に似ていることから松果体と呼ばれており、都市伝説的には様々な遺跡で松ぼっくりのモチーフが使われていることが考察されている。

古代バビロニア古代エジプト、マヤ、古代インド等の遺跡。
現代でもバチカンの大広場やローマ法王の装飾品、アメリ連邦議会議事堂の天井画などにもモチーフとして表現され、古代エジプトではホルスの目の形が松果体と同じ形をしている。

古代の人々はこの松果体を覚醒させて、世界なんでもお見通していたとのこと。


なんてこった。

今すぐにでも松果体を覚醒させたい!!
世界なんでもお見通したい!!
世界を見通せると全てがわかるから、不安がなくなるらしいぞ!
私の未来も見通してくれ、私の松果体!!

ただ、そのためには健康な食事・松果体の石灰化を防ぐこと、電磁派を受けないことが大切らしい。

健康な食事はいいとして、石灰化を防ぐためにフッ素をとらないのがいいと。
フッ素は歯みがき粉やガム・缶ジュースなどに含まれている。知らず知らずの内に接種している。

また、電磁波はスマホや電子レンジ・電化製品から発せられている。
スマホ・電子レンジ、私の生活必需品、、、!
電磁波防げない、、、!
これは中々ハードルが高いぞ、、、。


覚醒して全てを見通す不安の無い人生を生きるか
はたまたYouTubeを見続ける人生を生きるか、、
まあ、選ぶのは、、、

覚醒する人生だよね!!

今日からYouTube絶ちをしようかな!泣
松果体を教えてくれたナオキマン、さようなら。
そしてようこそ、わたしの覚醒ライフ!

世界を見通せたら、ここでもどんなだったか書くね。